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マリア・デ・サン・ホセ

著作

彼女は、軽やかな筆と古典的な教養をもって書きました。イエスのテレジアについての対話、詩、手紙、統治のための助言などです。ここでは、その文章の選集、自筆の頁、写本と版を添えた著作、そして彼女について書かれた本をご覧いただけます。

選集

本人の筆による文章の選集で、その霊的著作集(ローマ、1979年)の版から採録したものである。角括弧内の省略記号は省いた箇所を示し、原文の綴りはこの版のものである。

  1. 1. 少女、母テレジアをのぞき見る
  2. 2. 着衣の日
  3. 3. 「一つの魂を治めることは、一つの世界を治めること」
  4. 4. 貧しく囚われた跣足修道女の手紙
  5. 5. 没薬の花束
  6. 6. 三つの詩

1

少女、母テレジアをのぞき見る

『憩いの書』、第二の憩い(1585年)。マリアは「恩寵」と名乗り、「フスタ」と語り合う。

[...] 神が彼女のうちになさっていると私たちが察していたことを少しでも見たくてたまらず、私たちは時おり、彼女が閉じこもっていた独房の扉の隙間からのぞき、脱魂している彼女を見ました。私もこの目で何度かそれを見ましたが、彼女はそこから、少しもそれと悟られぬようにして出てくるのでした。姉妹よ、あなたも知っているとおり、あの方はいつもどれほど慎み深く、主が授けてくださる大いなる恵みをどれほど用心深く隠しておられたことでしょう。[...] このころ、私たちの母とその同伴者たちに会い、親しく交わるうちに、主は私を修道生活へとお召しになりました。あの方々は、その感嘆すべき生活と会話によって石をも動かすほどでした。そして私があの方々の後を追うようになったのは、私たちのよき母の柔和さと深い思慮分別によるものでした。まことに私は思います。魂を神のもとへ導く務めにある人々が、あの聖女の用いていた工夫と手立てを用いるならば、今よりはるかに多くの魂を導くことでしょう。私たちの本性は満足を求め、苦労を避けるように傾いているのですから、徳と神への奉仕とを険しく困難なものとして描くことは、キリストのために苦しむことがどれほど甘美であるかをまだ味わったことのない弱い人々を怖がらせることになるのです。

2

着衣の日

『憩いの書』、第二の憩い。

私にとってこの上なく幸いなあの日、主が私をエジプトから連れ出し、私が修道生活に入ったあの日が来たとき、私は二十二歳の年を歩んでいました。その日は栄光あるナジアンゾスの聖グレゴリオの祝日で、私はその日からこの聖人を私の父、私の避けどころと仰いでいます。それは千五百七十年、五月九日のことでした。いとも親愛なる姉妹よ、その瞬間から主が私に与えてくださった喜びを、私は言い表すことができません。今日に至るまで、ほんの一瞬の心の動きとしてさえ、後悔しようとか不満を抱こうとかいう思いが胸をよぎったことはありません。それどころか、魂のうちの喜びがあまりに大きく、笑いを隠せないことがたびたびありました。

3

「一つの魂を治めることは、一つの世界を治めること」

『ある院長が他の院長に与える助言』(1590–1592年)。この論考の小見出しは編者による。

一つの魂を治めることは、一つの世界を治めることです。人間は「縮められた世界」と呼ばれているのですから。[...] 何一つ赦さない者が、よい長上でしょうか。いいえ、決して。何一つ罰しない者が、よい長上でしょうか。いいえ、決して。いつも憐れみ深い者が、よい長上でしょうか。いいえ。いつも厳格な者が、よい長上でしょうか。いいえ。[...] ああ、両極を治めるということは、なんという技であり学問でしょう。長上は、柔和でありながら厳格で、報復する者でありながら赦す者、気前よくありながら倹しく、穏やかでありながら怒りやすく、忍耐強くありながら忍耐せず、素朴でありながら疑い深く、性急でありながら遅くなければなりません。そして、このうちどれか一つが欠けても、時計は狂ってしまうように思われます。[...] 思慮分別がなければ、まさにそうなるでしょう。思慮分別こそがこれらすべての部分を組み合わせ、それぞれがしかるべき時に役立ち、必要に応じて用いられるようにするのです。思慮分別がなければ、これまで述べたことをすべて備えていても、益にならないばかりか、かえって害になるでしょう。それは、狂人の手に握らせた、人を傷つけるための多くの武器を持つことにしか役立たないからです。その人は柔和が必要なときに厳しさを用い、罰すべきときに赦し、癒すべきときに傷を負わせるでしょう。

4

貧しく囚われた跣足修道女の手紙

1593年、幽閉の中から、姉妹たち、娘たちに宛てて書かれた。彼女たちは「彼女がこのような有様にあるのを見て悲しんでいた」。

いとも親愛なる姉妹たち、わが娘たちよ、女の情と優しさに身をゆだねてあなたがたの涙に加わるべきか、それとも心の光に従って、あなたがたの嘆きをとがめるべきか、私にはわかりません。私たちが互いに結ばれている固い友情のおきてからすれば、私が笑っていることをあなたがたが泣き、私に恵みを施してくれる者について嘆きを並べるのは、ふさわしくないからです。[...] それでも、いとも親愛なる者たちよ、もう一度尋ねます。なぜ心を乱すのですか。もしや、苦難の栄光と富を知らないのですか。それとも、アダムの子らが苦しめられることを、新しく、ためしのないことと思うのですか。

[...] さて、私の幸いに話を戻して、愛する娘たちよ、お願いします。私がここに閉じ込められているのを見て心を痛めないでください。私の自由のための人間的な手立ての扉がすべて閉ざされていることを嘆かないでください。[...] それを救うことのおできになる方は、遠くにはおられないのですから。その方はそれをご覧になり、それをお許しになり、もしかすると私たちの忍耐をご覧になるために、私を見て喜んでおられるかもしれません。その方とあなたがたは話すことができます。その方の前に私を差し出すことができ、その方によって私を助けることができます。[...] 彼ら[囚われの聖人たち]は残酷な敵のただ中に、私は慈しみ深い姉妹たちのただ中に。彼らは恥ずべき牢獄に、私は天の一隅にいて、そこで私の守りとして付けられた天使に、これほどの慈しみをもって訪ねていただいているのです。[...]

そして、この牢を出る前にそれが来ることがあれば、愛するわが娘たち、親しい姉妹たちに知っておいてほしいのです。私は、わが栄光ある父ナジアンゾスの聖グレゴリオの言葉を唱えながら、満ち足りて死ぬのだと。そのとき私は報復を遂げたと見るでしょう、私を迫害する者たちが救われるときに。そうでありますように。アーメン。[...] いとも親愛なる者たちよ、あなたがたの姉妹であり、はしためであるこのマリアのために祈ってください。Laus Deo。

5

没薬の花束

『没薬の花束』(1595年)、雅歌1章12節の注解。

わが愛する方は、わたしにとって没薬の花束。わたしはその方を胸のあいだに置きましょう。聖なる花嫁よ、これはどういうことですか。苦い没薬の花束と、あなたは愛する方を呼ぶのですか。[...] よくご覧なさい。花婿はアダムのような性分の方ではなく、あの方と一緒に甘い林檎を食べに行くのではありません。あの方はキリスト・イエス、その甘さの代価を十字架の苦さと責め苦で支払われる方です。そして、花嫁として手を差し出すのなら、釘があなたの手をあの方の手と結び合わせるでしょう。あの方は血の花婿です。[...] あの方の晴れ着は嘲り、あの方の誉れは辱め、あの方の贈り物は鞭打ち、あの方の音楽は冒瀆、あの方の食べ物は胆汁、あの方の冠は茨です。[...]

ああ、わがよき主よ。あなたが私たちにとって没薬であられるのも無理はありません。私たちはあなたにとって胆汁であったのですから。そしてあなたはそれを味わわれ、私たちの母が食べた林檎の味を、エバの娘たちから取り去ろうとなさいました。ああ、あなたが胸のあいだに置かれた没薬である花嫁は、なんと幸せで、なんと幸いなことでしょう。苦いという名をもつこのことのうちに、どれほどの喜びと甘美さがあるか、誰が言い表すことができるでしょう。

6

三つの詩

「目に涙を求める」(トレド、1562年)。

目よ、もしわたしに何か善いことをしてくれるなら、
それは泣くことでなければならない。
悲しみがわたしを喜ばせ、
喜びがわたしを悲しませるのだから。

この好みに驚かないでほしい、
ゆがんだものと決めつけないでほしい。
わたしは心を傾けているのだから、
苦しみと憂いを求めることに。

「もはやすべて愛する方のもの」(マラゴン、1571年)。

この世とその言葉には、もはや何ひとつ
わたしを喜ばせるものはない、空しいものだから。
ただ恐れるのは、背きはしないかということ、
わが優しいイエス、至高の王に。
いのちはもはやわたしには厭わしく、
あらゆる遅れは非情な
責め苦、きびしい牢。それはわたしをとらえ、
わが宝からこれほど遠く隔てている。

けれども魂がついにその中心にたどり着き、
愛が座を占めるところに至り、燃え立って
愛の火のうちに、一瞬のうちに、
いのちを与える愛が魂を変容させるとき、
高き悟りのうちに我を忘れ、
神の抱擁のうちに迎え入れられて、
魂は言う。わが優しい愛する方、わたしはもうあなたのもの、
あなたの右の手がわたしの頭を抱きますように。

「わたしは思い煩わない」。1593年の復活祭、リスボン(ポルトガル)の修道院の牢にて。

わが贖い主が復活されたのだから、
わが自由を思い煩うことはない。
栄光に輝くその方を見て、わたしは満ち足りている。
この世のいのちは短く、取るに足りない。

報いはよりまさるものであってほしかった。
わが自由を思い煩うことはない。
今日、泣き声や嘆きが響くのはふさわしくない、
喜びに満ちた愛する方を、わたしたちは見ているのだから。

死の眠りから、今日その方は起き上がられた。
わが自由を思い煩うことはない。

ひれ伏して、わたしは心をすべてその方にささげる。
わが主が自由に、それをわがものとしてくださるように。
ただこの幸いだけを、わたしはいつも慕い求めてきた。
わが自由を思い煩うことはない。

María de San José (Salazar), Escritos espirituales, ed. Simeón de la Sagrada Familia, 2.ª ed., Roma, Postulación General O.C.D., 1979

自筆の頁

マリア・デ・サン・ホセの手書きの頁です。画像を押すと大きく表示されます。

マリア・デ・サン・ホセの自筆署名:「María de San Joseph, priora」
自筆原稿にある彼女の署名
  • マリア・デ・サン・ホセの手書きの頁、1 / 5
  • マリア・デ・サン・ホセの手書きの頁、2 / 5
  • マリア・デ・サン・ホセの手書きの頁、3 / 5
  • マリア・デ・サン・ホセの手書きの頁、4 / 5
  • マリア・デ・サン・ホセの手書きの頁、5 / 5

著作

彼女の手稿がどこに保存され、どの版で読めるか。デジタル版がある場合は、リンクからそこへ移動できます:BNE Digital(スペイン国立図書館)、Digicarmel、Google ブックス。

彼女についての本

彼女についての伝記と研究書です。各リンクは、その書誌ページ、または国立図書館の目録につながり、図書館や書店で所蔵本を探せます。

ブログ Teresa, de la rueca a la pluma にも、彼女に関する無料で読める論文があります。